雑 文

目次

東関部屋見学日記


↑曙親方と(心勇さん撮影)

先日(2月7日)、東関部屋に稽古を見学に行きました。
東関部屋には、高見盛というビックネームがいます。
9時ごろ部屋について見学させていただいたのですが、
彼はすでに熱気むんむんでありました。
でっかい石をかかえて、すり足をしたり
鉄砲柱に右肩をすごい勢いでぶつけたりしながら、
「ハアハア」いってました。
さて彼の稽古に入る寸前に曙親方が登場し、
僕と木村政治氏の前に座りました。
ぼくは前がまったく見えなくなったため、多少ずれましたが、
木村政治氏は、微動だにせず、ずっと親方の背中を眺めていました。
稽古は程なく終了し、
親方に「こんどうちに稽古にこい」といわれ、
打ちひしがれました。
高見盛関の
「こわがるな、ムン」
「なぜわきをあける、ムン」
といった怒声が印象的でした。
潮丸関がいなかったのは残念でした。
次は闘牙関の稽古見学にいきたいと存じます。
(多賀谷鉄平)

唐木先生最終講義

相撲部の元おかみ唐木恵子さんの父上、獣医薬理学教室教授唐木英明先生の最終講義が、3月18日に農学部1号館でありました。演題は「カルシウム40億年の謎」で、カルシウムの2つのパラドクスを解きました。先生の普段の講義は学生のディスカッション中心だったので、初めて先生のまとまった話を聞きました。
(木村政治)

峰崎部屋訪問録

6月1日朝7時、OBの白石さんに引率されて峰崎部屋の前に到着した我々東大相撲部一行 の表情は一様に暗かった。いや、正確に言えば、不安に押しつぶされそうな顔をしていた。 それもそのはずである。我々はこれから熟練した技を叩き込まれるのである。今まで我々 が経験したあらゆる稽古よりもはるかにつらいであろう稽古が待っているのだ。戦々恐々 とは、まさにこのこと。屠殺場に引かれていく豚や牛の気持ちが分かるようだ。大山さん の顔は引きつっている。木村さんに至っては、自分のまわし(注:中原さんのまわし)を持 参しているのに、「僕は今日は見学する。」とのたまった。

さて、部屋に入り、まわしを締め、稽古場に入ると、力士の方々がもう四股を踏んでい る。ピーンと張り詰めたその場の空気は、我々が予想していたとおりのものだ。我々も準 備運動をしたうえで、土俵に上げてもらった。やはりプロはすごい。東大のエースである 大山さんの必死の突進も、あぶなげなくさばいている。いわんや他の部員においておや。 皆子供扱いだ。そんな中、私はどうしたかというと、宮脇の後ろに隠れるかのようにしな がら、体力の消耗を避けて、推移を見守っていた。つまり「遠巻きに眺めていた」わけだ。

そんな私を見つけたのは親方だった。「オイッ!そこの小さいの。おまえ青森出身だろ う!早く土俵に上がれ!」さすが親方である。「ゆっくり休もう」という私の邪心を見抜 くだけでなく、出身地さえ言い当てるとは!

私に胸をかしてくれたのは、これまた青森出身の峰桜さんだった。(ちなみに峰崎部屋 は力士6人中2人が青森出身。親方とおかみさんも青森で、呼び出しさんも青森である。) まるで石臼を押しているような重量感である。さんざん押して、押して、押して、転がさ れると、まわりから「もう一丁いけ!」の声がかかる。もいっちょもいっちょと言われて 連続で3番とった。もう勘弁してくれるだろう、少し休めるぞと思ったりした私が馬鹿だ った。「おい!青森の情っ張り魂みせんか!もう一丁だ!」「津軽衆はこんなことで、音 をあげんのだ!」「さあもいっちょいけ!」そう声をかけて下さった、親方や青森出身力 士の方々の、同郷の若者を鍛えてやろうというあたたかい心に、私は感激と感謝と感動と うらめしさのこもった気持ちを抱きつつ。さらにがんばったものだった。

「もいっちょ」「青森がんばれ」の言葉を何回聞いたであろうか…。私は脱水症状を起 こして、部屋の厨房に連れて行かれ、食塩水を呑ませてもらっていた。そこに親方が現れ た。「このくらいで脱水症状とは、おまえそれでも青森人か!」と言いつつ私の体を気づ かってくれた。

稽古終了後、我々はちゃんこをごちそうになってから帰った。さすがに、本場のちゃん こはうまい。だが、ちゃんこ以上に印象に残ったのは、おかみさんだった。おかみさんは 私の弘前高校の大先輩である。地元でもなかなかの有名人で、高校の先生から「あの人は 美人だよ。」と聞いていたが、本当に美人だった。話もさせていただいたので、帰省した ら、そのことを自慢しよう。
(佐藤参段)

「槌音」掲載文

「槌音」は毎年四月に新入生に配布される冊子で、主な内容は各サークルの紹介です。ここでは過去に相撲部が書いた文章を再掲します。

平成13年

駒場の原に 草深けれど
白亜の壁に 区切られて
愛の交わる 土俵あり
集う益荒男 手弱女が
組みつほぐれつ 息はずませて
力を結ぶ 勢い止める
者もなし
群雄並ぶ 両国に
勝どきあげる 相撲部は
そびゆる巨塔 東大に
人知れず咲く 大輪の花
(木村政治)

平成14年

アリストテレスは、神の摂理たる天体の運動は、完全 な図形である円がふさわしいと言ったので、前島密は 、とぼけるな、月が真円を描くときこそ我々サイヤ人 が最も力を発揮できるのだという手紙を日本で初めて 送ったが、孟子とその母は学校のそばへ引っ越してし まったので届かず、学校が海に近かったのをいいこと に、白鳥麗子の父は大胆なリハウスに打って出たので あった。これと軌を一にして、四半世紀前、丸い土俵 が駒場キャンパスに誕生し、過日建て替えられ、そこ で相撲をする賢者は力人として神々に属することとな ったのである。以上が、個体発生が系統発生をくりか えすことの好例として小学校で教えられていることで ある。
(木村政治)

平成15年

現在の日本は、長引く不況や民心の荒廃と、先進国と は思えぬ惨状を呈している。そうというのも、国技で ある相撲が今ひとつ国民に浸透していない事が原因で あることは論を俟たない。辛うじて文明を謳歌してい るのは、青森県に代表される、一部の「相撲先進県」 のみである事は、駒場公園の野良猫も詳しい。このま までは日本はどうなってしまうのだろう。今こそ若者 はズボンを脱ぎ捨て、まわしを着けなければならない 。尻を晒したくなくば、スパッツを下に履くもよし。 何ぞ躊躇する事あらんや。皆で輪になって土俵に上が り、高々と破邪顕正の四股を踏めば、大地に潜む悪霊 は全て調伏され、光ある21世紀がようやく始まろうと いうものである。
(佐藤参段)

平成16年

14年か15年の使いまわし

平成17年

東大と言えばやっぱ相撲だね

東大相撲部はちょっと変わっている。
何で?
1. 適当だ。忙しい時つかれった時来なくてもOK。
2. ワカラナクテモイイ。外国人でもOK。
3. お尻を見せるのは目的じゃない。スパッツOK。
4. デブじゃなくても体重別の優勝になれる。50kgでもOK。
5. 女子相撲は最近世界中大ヒット。女はスパーOK.
6. 卒業の時ベンチで少なくても100kgあがる。最初は弱くてもOK。
7. 安全安心。夢尾ちゃんに治療してもらう。マッサージでもOK。
8. 先輩・後輩はあまり関係ない。警護わからなくてもOK。
9. 何もいらない。何も払わない。マワシもらえる。ご馳走になる。貧乏もOK。
(Petr)

ねぶたとわたし

私はねぶたの魅力に幼くしてとりつかれ、 ねぶた無しでは生きていけなくなった。 そんな男のねぶた人生が、ここにある。

ねぶたとは?

弘前ねぷたや青森ねぶたは、日本最大級の祭りとして有名であるが、青森県内ではこの他にも、規模こそ違うが、いたるところでねぶた祭りが行われている。 そもそもねぶた祭りは、もともとは「眠り流し」といって、農作業の忙しい夏に人々を襲う「ねむけ」を追い払うための行事であった。同様の行事は、津軽地方だけではなく、全国各地で見られる。しかし現在は、魔除けの 行事という意味合いは薄れ、夏祭りとして民間に定着している。

ねぶたの形について

ねぶたには二つの形状がある。一つは人形ねぶたと呼ばれる物、もう一つは扇ねぶたと呼ばれる物だ。人形ねぶたは、針金で作った骨組みに和紙を張り付け、それにいろをつけたものである。記録によると、江戸時代から明治初期までのねぶたは、ほとんどこの人形ねぶたであった。しかし、この人形ねぶたは、製作に手間もかかれば経費もかかる。(現在の青森ねぶたでも一台作って運行するのに2000万円かかるという。)そこで、明治中期に現れたのが、扇ねぶただ。これは、厚みを持った扇形の骨組みを作り、この両面に武者絵を書いた和紙をはって運行する。こちらの方が、人形ねぶたよりも、短時間にできるし、安上がりでもある。(弘前の大型扇ねぶたは、高くついても一台作 って運行するのに400万円ですむそうだ。)現在、青森市では人形ねぶたを取り入れ、弘前市は扇ねぶたが主体である。その他の県内各地域は、場所によって人形が主流だったり、扇が主流だったりと、まちまちである。なお、ねぶたの題材は、三国志、水滸伝の英雄や、川中島の上杉謙信と武田信玄等が人形ねぶた、扇ねぶたに共通して使われている。また人形ねぶたには、三内丸山遺跡にちなんだ縄文物や、古代からの郷土の英雄、その他、暫や勧進帳等の歌舞伎物も多く、扇ねぶたでは、津軽藩の藩祖である津軽為信公を題材とした物が、かつての城下町、弘前を中心によく見られる。

わたしとねぶた

僕の実家があるのは、西津軽郡の鯵ヶ沢町の舞戸地区である。地区は13の町内に別れており、毎年お盆に町内ごとに1台のねぶたを作って、合同運行を行っている。人手が足りず、ねぶたを出せない町内もあるため、運行されるねぶたの数は、毎年10台前後であり、弘前風の扇ねぶたである。 私は小さい頃から、親に手を引っ張られながら、自分の町内のねぶたに参加し続けた真っ暗な、集落の中の小道を進む時に、扇に描かれた勇壮にして陰惨な武者絵や、哀愁帯びた笛の音、ドンコドンコと夜空を震わせる太鼓などが作り出す異様な空気は、なぜか幼い私を魅了してやまなかった。

笛について

ねぶたがの季節が近づくと、楽しみで楽しみで、じっとしていられない少年になってしまった私だけれど、ただ一つ不満があった。私の住む坂本一町内会は、家が三十数件しかない小所帯である。それでもなんとか毎年ねぶたを運行してきたのだけれど、悲しいことに、笛を吹ける人がいないのだ。太鼓の音だけでは、聞いている人も物足りないだろう。当時、坂本一町内会で太鼓を担当していたのは、中学二年の私と、三歳年下の、近所の子供である。そこで、太鼓はこの子に任せて、自分は笛に挑戦することにした。とはいえ、ねぶたで使う、竹製の横笛は、なかなか音が出るものではない。一朝一夕でこなせるものではない。それでも、何年も練習するにしたがって上達するもので、二、三年たつと、何とも頼りないが一応は吹けるようになった。

ねぶた絵について

扇灯籠に描かれる武者絵は、毎年新しい物が描かれるのが望ましいのだが、これがまた、慣れない人には結構な手間なのだ。我が町内も、同じ絵を何年も使い回していたものだ。しかし、隣の町内が新しい絵で往来を練り歩いているのに、自分達だけ何年も前からの絵、というのは大変おもしろくないものである。 下手な絵でもいいじゃないか!別に、弘前ねぷたで活躍しているようなプロ絵師並の技量が求められている訳ではない。大切なのは心意気だ! そんなわけで、中学生のころ、初めてねぶた絵にチャレンジした。その結果、なんとも下手くそな絵ができあがった。それでも、町内の世話役の方々はその絵を採用してくれた。とてもうれしかった。その年、自分の書いたねぶたが運行されるのをみて、照れくささと晴れがましさが半々だったのを覚えている。次の年から、毎年坂本一町内会の絵を書かせてもらい、現在に至っている。
(佐藤参段)